某セレブのモデルがテレビで「いつでも建物の最上階で過ごしていないと嫌だ」と言っていた。

理由は「上の階に人がいて、踏まれてる気がするから」ということだ。別に立場的に人の上に立たないと気が済まないとかそういう意味ではないらしい。「だって頭の上で他人がトイレしてるかもしれないんですよ!?」と。

踏まれてる意識があるってことは自分がその足で人を踏んで人の頭の上に糞たれてる意識があるってことだろうに。




ーどうでもいいことでした。



2年生、住宅ふたつめの課題です。

いくつパクってるかわからないくらいパクってます。痛々しい。やっぱこれがワーストかも。
ボキャブラリーって大事だね。
せっかくやりたい事があってもパクることで無条件に無価値なものになってしまう。


でも逆にオリジナリティーってどれくらい価値のあるものなんだろう。
結局できるものがいいものならオリジナルかどうかって関係ないんじゃ…。
そこはやっぱり建築に作家性、作品性が伴ってるからなんだろうか。
ゴッホの絵は風景画も肖像画も自画像も全部が自画像のようだって評論家が言ってた。
ゴッホの極限の精神状態とか体験がそのまんま絵に出てるからだ。
そうなるとゴッホと同じタッチで同じ色使いで絵を描いてもそれはうそになる。
見た目にきれいだとか楽しいとかっていう価値はあってもゴッホの絵の中で重要な内面表現とそれとの対話で何か感じ取れるっていう価値はない。


それは絵が目を楽しませる「道具」ではなくて意思や感情をこめる、
「作品」であるという前提に立った時に発生する問題だ。


じゃあ建築はどうか。
道具か作品か。決着のつきづらい議論になりそうだからやめるけど、
自分の意識をかえりみるとやっぱり建築が道具であるとは割り切ってしまえないところがある。
じゃあパクリはだめってことで。この住宅もだめってことで。


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パクリは一旦おいて毎度のつまらない自己分析に入るが、
この住宅では前回のものと違うやり方で他人との距離を取った。
この課題は8人の共同作業で、8つの住宅が向かい合うという設定であり、真ん中の部分は共有空地になる。


つまり接地するとやばい。みんなわいわいしてるのと同じ目線になる!
壁なんかで囲ったら「(あいつ俺たちと仲良くする気ないのか)」なんて後ろ指さされる!
ということで浮かせた。(終わってるな…。)
浮かせた先っぽの部分は最大限気持ち良くつくろうと思い全面ガラス張り。
暑くて寒くて死にそうだが、8人程度円座できるようなスペースは取っている。


住人の許容した人間とは近づけるように、それ以外とは徹底的に離れるという割り切り方。
うーん。距離感を制御できる面ではいいかも。でも暗いなやっぱし。


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あとこの住宅やってる時に先っぽに向けて壁が崩れた感じになってるところを
「芸術的だね」と嫌味されたことがあった。
むかついたので壁のレイアウトはくじ引きでランダムにやって、
「お前の住宅の方が恣意的だろうが」と直接言わずに心の中でやり返した。
やり返せてない。てか暗い。


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カーサ・バラガン

カーサ・バラガン



作品の写真だけで涙を誘う天才中の天才、尊敬してやまない建築家バラガン。
メキシコに咲くピンクの花を愛するあまり壁をピンク色にした詩人バラガン。
自閉症の巨匠、安藤忠雄とそしてバラガン。
地面の溶岩を掘り出してそのまま積み上げて壁を作ったバラ岩。


自分で自分の家を設計したくて建築学科に来たけどバラガンだけには自分の家を設計する権利を譲りたい。
それで一生自分の家を設計できなくてもいい。


取り敢えずパクリはやめよう。