50cc奥の細道④土門拳記念館から

土門拳記念館へ。
谷口よしお、イサムノグチ、そして土門拳という超ウルトラスーパーコラボレーションな作品。
同期からも先生からも勧められ、コースを変更して見に行く。
なんの予習もなしに見に行く。生来無精な物で。



・水辺の幾何学的な物体。モダンなかんじ。
・池と建物ボリュームの間に壁が一枚立ってて、壁に開口ができたりボリュームが貫通したりで関係性を調節してる。大まかにはそんな構成?
・壁の切り方で池がいろいろに見える。ギャラリーからラウンジに向かう動線は池に向かって開口を徐々に開く。フレーミングに露出調整みたいな。写真のメタファーだたぶん。
幾何学的な形態は神殿的な雰囲気すら醸し出している。イサムノグチ有機的かつシンプルなランドスケープとまた非常にマッチしている。
・展示空間は抑制の利いたデザイン。ちょっとしたスロープや段差も空間に変化を与えつつやりすぎず。


・とまあいろいろある。
・優れた建築だと思う。詩的かつ巧妙な操作。
・でもどうでもいいことを考えてしまう。
・俺は今この建築を建築作品として見ている。分析しているし読んでいる。
・でもそれは建築の本質ではない。
・建築は建築鑑賞者のために作られるのではない。この建築であれば土門拳土門拳の作品を愛する人々と土門拳を知らない人々の為に作られた。
・純粋にただ展示を見ようとする。展示を見ている間はいい。
・でも展示から30°視線をそらすともう建築を見ている。鑑賞者の目で見ている。技を盗もうとしている。
・つまり建築を見ているようでその本質から目をそらしている。
・どう見たらいいのかわからなくなる。
・無心で見ればいいわけではない。建築を専門にしない人間だって何か考えながら見ている。
・何を考えながら見ていいのかわからなくなる。


・3年前に東京を旅行したときは建築だけを見に行った。
・2年前に東京を旅行した時、「建築の人」ではなく「ただの若者」として行くことに決めていった。そのときにはじめて建築の本質が見えた気がした。
・本質だと思ったのはつまり、ゲシュタルト心理学でいうところの「地」としての建築。
・原宿の服屋の値札が「図」でありミッキーマウスが「図」でありお台場の雰囲気が「図」であって、建築は東京タワーと森タワーとフジテレビとシンデレラ城を除いて全部「地」だと思った。
・グラスが向き合った顔に見えるようにまったく違う物を見ている気になる。
・同じ物を見てるのに。


・建築を見る(体験する)人の10,000人に9,999人は専門家じゃないから地としての建築を見ている。ならば図としての建築の見方よりも地としての建築の見方の方が10,000倍重要になるわけだ。その倍率での差はもはやどっちが本質かを示すレベルではないか?


・まあ見方のはなし。作るときのことはここでは置き、あくまで「建築をどう見るか」。
・意識しない人は意識しないでもいい感じに見れるのかな。
・でも俺気になる。だって見方を切り替えるだけでグラスが顔面に見えるんだから。


・まあこういうことを考えてしまうぐらい土門拳記念館は巧妙だなと思ったわけで。
・ほんとうまい。巧みな演出、美しさ。
・ぶらり旅紀行に続く