portfolio-18-1-卒業設計①

卒業設計を終えてから1年半程度経った。
2個下の後輩がそろそろ考え始めてるということで最近も話題にのぼるようになってきた。
アドバイスをしてやろうと思ってもそれは本来ならできない話で、
卒業設計は全力でやるマスタベーションみたいな面があるから個人のアスピレーションが全てだとも思えるからだ。


とこんなふうに定義するのも怪しいぐらいに百者百様の取組み方がある卒業設計だ。
それまでの勉強の総まとめと考える人もいればコンペみたいに賞を狙う人もいる。
そうなると後輩に話さないといけないのは何だろう?
わからないが、とりあえず無意味そうなのは取組む姿勢について語ることだ。
それは100%個人に依存することだ。正しい取組み方など存在しないし存在してはいけない。


こういうときついつい自分語りしてしまう悪い癖がある。大問題だ。
特に卒業設計についての話でそれをやってしまうと単に相手を惑わせるという悲惨なことになる。


だからここで一通り吐き出してしまうことにしよう。
ネット上の公開された空間ですがチラシの裏として使わせてもらいます。


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建築を考える際にいつも気にしていたことが二つある。
それは「時間」と「人間」について。


①時間


一個の石とこの国や世界の状況と、どっちが長い間同じ形を保ち続けることができるだろうか。
火山活動によって山ができてからその山が風に削られ再び平地になるまでの時間と、どこかで革命が起こって新しい国が出来てからその体制が崩壊するまでの時間とどっちが長いだろうか。
もっと身近な例で言えばRC造のアパート一戸が取り壊されるまでとそこに住む一世帯が子供を産んでからその親が死ぬまで、どっちが長いか。(これは微妙?)


以上は内藤廣が語っていたことだが、物質と地形という固定された形を持った物に対して
人間同士で作る、本質的に流動的な社会、そのシステムやサービスは時間という尺度で見た際にあまりに儚い。


同時に建築、特に公共に属するものは空間的に、時間的に「強い」ものであってほしいと願われがちだと思う。
その強さの現れ方は様々で、ゴシック建築みたいに(定点視点ということも含めて)完全に固定化された強さもあれば
日本の古建築みたいに流動変質する自然に身を任せることで得られる強さもある。
それは建築の目的(神の居場所(の偶像)を設定する事、自然に身を投じ瞑想の中に悟りを得ること)に寄り添った部分もあれば一方で建築家個人のエゴ、自分達の属する集団の永続を望む集団のエゴも投影された結果にもよると思う。


自分も卒業設計では強い建築を作りたいと思った。
目的は置いておき、とにかく「強さ」そのものに対して挑戦したいと思った。ここでは特に時間に対する耐性。
空間的な強さも時間に対する耐性を補強する付随的なものとして考えていた。


ところでイソザキ先生の考え方は当時から気になっていた。
「建築の完成は破滅へのスタートでもあり、最後には意味を剥奪された形式、すなわち廃墟があるだけ」
というニヒルな(?)考え方。
(※難しいので要約間違ってるかもしれない。)


その辺に対する勝手な解釈のもと手法を組み立てた。
敷地と目的(炭鉱云々)はどうでも良かったので、前にも書いたように霧がおもしろいから霧の多い釧路にした。そんなかんじだ。


そんな気分でいたらK教授に「釧路で炭鉱やらないのは逃げなんですよ」とか言われて
「はぁそうなんですか」とヨダレたらしつつ目的も炭鉱になってしまった。
そこでつっぱれなかったのは未だに無念であるが。
できたものを見てまぁ例年のうちの感じだねと言われてしまえば言い返すことはできない。


続く