『構造デザイン講義』内藤廣

氏の考え方にもう少し興味を持ち始めたのは卒業設計の頃からで、長い時間の流れの中にあり続ける建築をどう作ったらいいかというようなことを考えていたときだった。


作品集に載っていた論文で氏が語っていたのは、長い時間を念頭に置いたときに考えないといけないのは「地形」と「素材」という大小両極の二つの要素であるということ。たしかに。
土地とか物質というものに対して社会状況(→プログラム)とか流行(→せまい意味でのデザイン)はずっと短い時間のうちに変化する。

それからもう一つは建築に関連する様々な分野間の横断について。
日本だったら建築と土木と都市計画、海外ならアーキテクトとエンジニア。理想論的にはいろんな人が言ってる事だけども、内藤廣は建築家という立場の中でいろいろ試みてるらしく、そのへんも興味深く思った。

そんなことが頭にある中でこの本を手に取ってみた。構造デザイン。以下内容と感想。



そもそも「構造」と「デザイン」は真逆にある概念である。
「構造」は物理的な仕組みで、あくまで客観的な理屈で扱われるべき問題。
一方で「デザイン」は人間の思考とか感情によってもたらされるもの。
扱う対象が人間の頭の外にあるか内にあるかという意味で対照的なのではと自分は解釈した。


でもこの本では構造の問題を解く際に人間的な感性が大事だという事を一貫して語っている。
具体的には現場の職人が持っている勘だとかというもので、これは本来エンジニアが持たないといけないことだという。
さらにはスチールが父性的・構築的であるのに対しコンクリートが母性的・受容的であるとか。
要は「なんとなく」が大事だと言う事だ。もちろんそこには工学的な知識が前提に無いといけないはずだが。


「リタンダンジー(冗長性)」という単語にも通じるのかもしれない。
ちょっとこの辺詳しくはわからないが、無駄を削ぎ矛盾なくつくろうとする西洋近代的な考え方に対して
無駄と矛盾を許容しながら構造を考えていく、ということらしい。


全体としては以上のような著者の考え方に基づきながら、構造力学と建築設計の流れを解説していくものだ。
内容は本当に基礎的なものだし、著者の独断と偏見で多くが語られていく(実際それが主旨である)。
大まかな考え方というのを伝えるのが目的なので、もちろん読後感としてはもやもやしたものが残る。
著者のなんとなくの考え方も実践に基づいたものであり、学生の自分にはなかなか共感できるものではない。
構力の授業をさぼりつづけて来た自分がそれを鵜呑みにするのには危うさすら感じる。
構造についても感性をみがけという考えはそれこそなんとなくなら納得できるのだが。まあそれでいいのかもしれない。



で、先の『デザインのデザイン』における「コミュニケーション」というキーワードで見ると。
内藤廣は建築のデザインとは「場所/技術/時間の翻訳行為」であるという。
場所技術時間というのはいいとして、じゃあ翻訳するとは何か。


翻訳して人に読ませる、であれば説明する、とか感じ取らせる、みたいな表現する的な意味になる。
翻訳して設計に活かす、ならば誰もそれをわからなくてもいいが建築の質は変化する。


原研哉らが扱うのは前者の方だろう。
ただ建築になるとこれはどっちもありなのでは。
もともと自分は表現的な建築については懐疑的な方だが、わかりやすさとかメッセージ性、批判性というのも建築を強くするひとつの要素だとも思っている。


そのへんのわかりやすさが非常に強い事例が本の中にはたくさん紹介されている。
ゴシックのノートルダム大聖堂からジオデシックドームまで。
こういうのに自分が強い魅力を感じるのも、きっと表現性が重要という事を裏付けているのかもしれない。なんとなくだけど。



なかなか感想もまとまらず錯綜してしまうが、最後に印象的な言葉を。


①「美は真理の近傍にある」坪井善勝


完全な合理性、客観的な正しさを追求した究極地点に美しさがあるのではなく、ちょっとした矛盾や不明確さを残した所に美しいものができあがるということか。
もともとなんでも理屈責めするのが嫌いな自分にとっては励みになる言葉。


②「技術と文化の融合するところに建築や土木の最高の成果がある」内藤廣


載っている作例を見てなんとなく納得できる。
見て美しいと思えるものにはそお時代の価値観だとか、
その時点での技術レベルとつくるものの理想像との葛藤が見て取れる。
一方でたんなる技術のひけらかしとか飾り立てられたものはどうしようもなく陳腐に見え。
これもなんとなくだけど。

構造デザイン講義

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